カテゴリ:らくがき帖( 57 )

ーーー野の百合はいかにして育つかを思え 労せず紡がざるなりーーー
という言葉を知ったのは『赤毛のアン』シリーズの最終巻『アンの娘のリラ』を読んで。

その言葉の宗教的な意味合いを私は知らないし、別に知らなくてもいいのだけど、
ほんの少しだけ知り合った「あの人」は、自らは紡がず、けれども紡ぐ人たちのために
労して立った人だったのだなあ〜・・・と思ったら、この一節を思い出した。

バイバイ、ちゅうさん。いつかまた会えるかもしれないよね。
どうぞ安らかにっていうより、どうぞよい旅を!って言いたい。


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「シロバナタカサゴユリ」© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2017-06-05 15:58 | らくがき帖

先だって描いたRehabilitation-12『灯火がひとつあればいい』では
それまで打ち上げ花火みたいな恋をくり返してきた自分が、もうこりごりして、
派手でなくてもいい、自分にはいつもそっと照らしてくれる灯火が
ひとつあればいいのだと思ったことを描きました。

その灯火は、きっとどこか知らない町にいる「お相手」の灯火ともつながっていて、
いつか必ず出会えるとかたく信じていました。
やがて時期が訪れ、自分が信じた通りにその場所へと誘われ、出会い、今に至っています。

今回、その Rehabilitation-12 で描いた絵を、ひとつの試みとして、少し整理し、
ふたつに分けてあらためて描いてみました。

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『どこか知らない町の灯りと』© tomoko okada

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絵として成功したかはまったく分かりません。むしろ失敗しているかもしれません。w
でも、いいのです。これは数年前に罹った手足の病を脱し、
再出発するために描いた自分のためのリハビリ絵なのですから・・・。

このふたつの絵を描き終えてしばらくしてから、面白いことに、
これは単に恋愛ばなしのひとつとして、どこか知らない町にお相手がいる
・・・ということだけでなく、仕事であれ、友だちであれ、
これから先出会うかもしれない様々な人たちの灯火とも
自分の灯りは繋がっているんだろうという考えが浮かんできました。

きっと、心に浮かぶ通りに、これからの私はまたあらたにいろんな人たちに出会い、
たくさんのことを体験してゆくのだろうと思います。
絵の中はまだ夜ですが、自分の中ではこれは夜明け前なのだという気がしています。

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『わたしの灯り』© tomoko okada

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一年以上かけて描いてきたRehabilitationシリーズはこれでおしまいになります。
拙い作品ですが、これまでご覧くださった方々にこころからお礼を申します。
一連の作品を見てくださって、どうもありがとうございました。

そして、さあ!次の章へと歩みを進めることにいたしましょう!

感謝をこめて

岡田知子

by team-osubachi2 | 2017-05-26 08:11 | らくがき帖

「うん。だいたい分かった。『じゃ、自分はどうなのよ?』ってことだよな」
今から十数年前、その人は私の個展を見にいらして、こう言いました。
私の顔に一瞬はてなマークが出たのを見て、その人はもう一度穏やかな口調で言いました。
「自分はどうなの?ってことなんだよ」

この時の個展では過去に旅した国々で出会ったり見かけたり人たちを描いて発表したのですが、
思いがけずその人はお祝いのワインを片手に一人でふらりとギャラリーに現れ、
ざっと作品を見てまわってからそう言葉を残して去ってゆかれました。
言われた言葉に戸惑いつつも、ひと言も言い返せないくらい何か核心を突かれた
・・・ということだけはハッキリとわかりました。

個展の二年ほど前だったでしょうか。
思いがけず広告業界の大御所コピーライターのその人からご指名いただき、
とても大きな仕事をさせていただいたのですが、
室内の雑貨小物や料理などを描いたシリーズ第一弾は好評だったのか
思いがけず第二弾も発生したまではよかったのですが、
今度はモノのほかに人物も描いてもらわないといけないが、岡田さんは人物が描けるの?と
間に入って仕事をすすめてくださったデザイナーさんを通して訊かれました。

ドキン!としました。当時の私は、人物は「形は描けるけど、どうも苦手」だということが
自分でもだんだんわかりはじめていたころでした。
私が描けるのはせいぜいお人形みたいな「形」だけ。
それならいくらでも描けるのに、どうして「人間」は描けないのだろう?
人物を描くことに腰が引けるほど、それはいつの間にか大きなコンプレックスになっていました。

けれどもこれは新聞広告の仕事でしたから、すでに締め切りは待ったナシ。
どうにかこうにか人物も描いて提出し、二度にわたる大仕事は無事に完了しました。
結局その大御所先生とは一度もお会いすることもなく終わったのですが、
のちに個展をひらくさい、ご案内だけでもと大御所先生にもDMをお送りしておいたのでした。
お忙しいだろうし、たぶんダメだろうと思っていたのに、案に相違してその人は来てくださいました。

「あの第二弾のときに、実は俺はデザイナーに“このコは人物描けないよ”って言ってたんだよ。
作品ファイルでも人物描いてあるの見た事ないしね。
で、来てみたんだけど、うん、今日見て、だいたいわかった。
やっぱり『自分はどうなの?』って事なんだよな」とお話してくれました。

よくわからないけど、なんだか禅問答みたいだなあ・・・と思ったその言葉は、
ずっとずっと私の心の中にピンで留めたメモのように貼り付いていたのですが、
数年後、とある失恋をキッカケにはじまった“自分と向き合う日々”の中で、
ある日アパートの台所に立って夕飯の支度をしている最中に
突然言われた言葉の意味が分かったのでした。

「自分を見失っているような者に、人間など描けるのか?」

瞬間、顔から火が吹き出たかと思うくらい真っ赤になったのがわかりました。
自分の裏側を完全に見透かされてしまったことの恥ずかしさ!
“穴があったら入りたい”とはこういうことを言うのでしょうか?!
一人きりの台所で、恥ずかしさのあまりしゃがみ込んでしまったほどでした。

いつからそんなことになっていたのでしょう?
気がつかないままのコンプレックス、上昇志向や見栄、または背伸びというものでしょうか。
私は、私という人間の本心をどこか遠くにすっ飛ばして、
何年も自分の中を空っぽにして、頭だけ小賢しく働かせてきたようなのでした。

いったい私の本心とはどういうものなのでしょう?どこにいっちゃったのでしょう?
考えてもさっぱりわかりませんでしたが、ありがたいことに「本心の私」は
はるか遠い空中に追いやられていても、細い細い糸の先に必死につかまって、
ちゃんと私に繋がっていてくれたようでした。

顔から火が出る思いをしてひと月ほどたったある朝、
これも突然、本心の私がシュッと私の中に戻って、あ!ひとつになった!と思った瞬間がありました。
ああ〜、自分が自分に戻ってきてくれた!ありがとう!本当にありがとう!
不思議なことに、歓喜と熱い感動が私の中で起こりました。
そして、もう自分から目をそらすのはやめよう。どんなに気に入らないところがあっても、
自分だけは自分の味方になってあげよう!と、そのとき心に決めました。
すでに不惑の四十代に突入して数年がすぎていました。

たぶんもう覚えていらっしゃらないだろうなあ〜と思いつつも、
個展のときにいただいた言葉と、その後ようやく言われたことの意味を悟ることが出来た
感謝の気持ちをしたため、お礼のはがきをのちにその人へお送りしました。

ーーー『じゃ、自分はどうなのよ?』ってことだよなーーー

そう言ってくださったのはコピーライターの仲畑貴志さんです。
あのとき仲畑さんからからいただいた言葉は、私の宝もののひとつとなっています。


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『私と本心』© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2017-05-21 20:27 | らくがき帖

それはどこか見知らぬ海辺の岬のはしっこ、、、といった景色でした。
よく晴れていて、春めいた淡い空色に雲がいくつも流れていきます。
心地よい海風に足もとの草がそよぎ、そこにポツンと座る自分の後ろ姿がありました。

あるとき、いつまで海の向こうばかり見てるんだろう?・・・と不思議に思いました。
以前のように崖から暗闇の谷底へ転落した時期とは違い、
まわりの景色はおだやかで明るくのんびりしているのに、
自分の後ろ姿はひとりぽっちで水平線のはるか向こうを見てばかり。
そんな心象風景が何日も何日も続くうちに、そうか、
今の自分は静かにしみじみと孤独なんだ・・・と気がついたのでした。

そうこうするうちに、巡り巡っていまの相方に出会ったのちのある日のこと。
いつものように岬の端っこに孤独そうな後ろ姿が見えているなあと思った次の瞬間、
私自身がその孤独そうな自分にむかってズンズン歩いていき、
手をかけたと思ったら、その後ろ姿を軽々と持ち上げ去っていったではありませんか!?
えー?どゆこと?
今まで見ていた孤独な後ろ姿は、なんとただの「書き割り」でした。
なんだ、この孤独な姿って自分で描いていたのか?!
自分の中の心象風景といえども、その展開に思わずポカーンとしてしまいました。

そこで思ったことは、孤独とは、他によってではなく
“自分で自分をそのように描いている”だけなのかもしれないなあ〜ということでした。
もちろんケース・バイ・ケースでいろんなパターンがあるのだろうと思いますが、
そう、自分の孤独なんて、まわりの人間には関わりのないことですし
近しい家族や親しい友人たちでもときには手に余る代物ですから、
出来ることなら、自分で描いた孤独は(もちろん周りの手助けを受けながらも)、
いつか自分自身で片付ける方がいいのですよね。
、、、なんて、十年ほど前、そんなことを実感した時期がありました。


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『孤独を描く』© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2017-04-23 09:59 | らくがき帖

今年のはじめに放送していたドラマ『東京タラレバ娘』。
結婚が遅かった私には、タラレバな女子三人のいくつものシチュエーションや台詞が
自分の二十代から三十代アホアホ時代の記憶にいちいちグッサリと突き刺さり、
「あ〜わかるう〜うう〜、そうよね、そうよね、私もそうだった」などと
気がつけば、テレビに向かってああだこうだ喋るオバハンと化していました。

若いころの私は、自分の家庭環境もあってか
「一生仕事していくもん。食べていけタラ結婚なんかなくていい、恋愛さえしていられレバ」
・・・なんてうそぶいていましたが、三十代も終わってとうとう四十代になったある晩、
就寝前のひととき、いつものようにベッドで温かいミルクティーを飲んでいたときのこと。
突然嚥下がヘタクソになって、紅茶が喉に詰まったではありませんか?!
慌ててベッドから出たところで、あろうことか口の中の紅茶を床に吐き出してしまいました。

どこかで犬がワオーーン・・・とは吠えませんでしたが、副都心新宿にもほど近い渋谷区のはずれで、
夜中の丑三つ時、なんとも「とほほ」なキモチで床を雑巾で拭きながら、
情けないなあ、いったい自分は何をやってるんだろう?
ああ、こんなとき背中をさすってくれる人がいてくれたらなあ〜・・・。
それよ!それだわ。独り暮らしはもういい。もう充分やったわ。
これからは背中をさすってくれる人と二人暮らしを経験してみたい!
・・・と、それは正直な心の叫びでした。

あるとき、コピーライターをしている既婚友だちに
「あなたの恋バナは(私みたいな)主婦の娯楽よ」と言われたくらい、
それまでの他愛も無い恋愛は、振り返ってみればまるで打ち上げ花火のようなものでした。
シュッとあがってドーンと破裂し、まばゆく輝いたと思ったら
すぐに燃えカスになってバラバラと地面に落ちてくるばかり。
あいたたた・・・、そんなイタイ花火はもう要らない。
ちいさくていい、ずっとそばで私を照らしてくれる灯火がひとつあればいい。
心の底からそう思った真夜中の床掃除。ようやくお相手を探すことを決意した夜でした。


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『灯火がひとつあれば』© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2017-04-15 08:49 | らくがき帖

Rehabilitation-11『鼻柱』

それまで務めていた広告制作会社を辞し、
バブル崩壊の世に二十代半ばでイラストレーターとして独り立ちしてからも、
いつの間にか四半世紀以上がすぎました。
家賃をはじめ必要な支払いと生活費が毎月毎月追いかけてきて、
楽ができた覚えなど一度もありませんが、
それでも腕一本脛一本、イラスト仕事だけで食べてこられたというのは
今思うとなんと夢のようで有難いことだったろうと思います。

ことに三十代のころは広告でも雑誌でも大きなお仕事をいただき、
勢いにのって、いっぱしに仕事が出来るような気になっていたものです。
けれども、時代の波というものでしょうか、
人生のターニング・ポイントを経てのちの自分の仕事ぶりといったら、
まるで迷路をさまよう鼠のように右往左往するばかり。
そうして自信を失くしていったあるとき、自分の鼻柱はボキッと折れてしまっていました。

あ・・・と思いました。
いったいいつの間に自分は「いっぱしに仕事が出来る人間」だなんて
そんなことを思い込むようになっていたのでしょう?
身動きのたびに壁のあちらこちらにぶつかって邪魔でしょうがないもの、
いってみれば意味をなさない自分勝手な矜持のような長い鼻柱が折れてしまうと、
面白いことに、その下には自分本来の鼻がちゃんとついていたではありませんか。w

長くもなく短くもない自分本来の鼻柱。そして気がついたのでした。
知らず知らず長くのびた自分の鼻柱を圧し折っていたのは、なんと自分自身だということを。
息をするのも身動きするのも楽で、自分本来の鼻柱でいるってなんて快適なんでしょう!

でも、気をつけないとピノキオのようにすぐにまた伸びてしまうかもしれませんが、
そのたびに自分で圧し折れる自分でいたいと思います、これからも。


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『鼻柱』© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2017-04-11 22:00 | らくがき帖

外苑前にありますギャラリーハウスMAYA-2さんにて
(2はMAYA本館の裏手にある会場です)
今年も『Peace Card 2016 Tokyo』展が開催中です。
今回のテーマは「隣りを愛せてますか?」。

毎度葉書絵でですが、今回も参加しています。
(とはいえ、昨日初日になって投函するという間抜けぶり・・・w )
額絵などチャリティー販売もしています。

ギャラリーハウスMAYA

本館のギャラリーでは、あの味戸ケイコさんの
「夕暮れの少女(短歌/平岡淳子)の原画展も開催中です。
お近くへいらっしゃることがありましたら、どうぞお立ち寄りください。


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「Thou shalt love thy neighbour.」© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2016-10-18 10:45 | らくがき帖

深層心理というものでしょうか、
心の中に描く世界というのは不思議なものです。
それは知らず知らずに人生の大きな転換期を迎えていたころの事でした。
何か心の拠り所が欲しかったのでしょうか、
私は自分の空想世界の中にちいさな泉を思い描いていた時期がありました。

洗面器ほどのちいさな泉は、はじめのうちはただの水溜りのようでしかありませんでしたが、
じっくりと自分と向き合う時間を持つうち、少しずつですが清水が滲み出て
徐々に外へ溢れて流れ出るようになりました。

そして自分が心で強く願っていた事ともじっくりと向き合う日々を過ごすうち、
あるとき泉のそばにちいさな包みがあるのを発見しました。
あら?いったいどこの誰がこれを・・・?
贈り主は分かりませんでしたが、赤い紐がかけてあるその包みは
しばらく泉の傍に置かれたままでした。

それからどのくらいの日数が過ぎたでしょうか。
ほどなくして私は今の相方に出会い、それまでの自分の生活がどんどん変わってゆく中、
そっと心の中を覗いてみると、あのちいさな泉からは渾々と清水が湧き出していて、
気がつくと傍らにあった包みはいつの間にか開けられ、中に種がひと粒あるのを発見しました。
私はそのひと粒の種を泉のそばに蒔きました。

ひと粒の種はその後無事に発芽し、双葉をひらき、ひょろりとした若木になりました。
誰が贈ってくれたものかは未だにわかりませんが、今後どんな木に育ってゆくのか、
これからも楽しみに心の中で見守っていこうと思っています。


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『ちいさな苞(つと)の贈り物』© tomoko okada

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by team-osubachi2 | 2016-10-02 21:55 | らくがき帖

まだ若かったころ、人生の先達と仰ぐある方から
「落ち込んだときは、落ち込んだその場所があなたの身の丈ですから、
そこにいたらいいですよ。そしてそこからまた前に歩いていけばいいんです」
というようなことを言われたことがありました。

もしかしたら、その落ち込んだ高さは
ハイヒールを脱いだ程度の高さだったかもしれないし、
また、もしかしたら、うーんと高くて
夜空の星に近いくらいの高さだったかもしれません。

人からみれば、ごく普通の夢のようなもの、
それのいったい何がいけないの?といわれそうな夢や希望に似た願望も、
本当の自分にそぐわないものだったりすると、
知らず知らず高くのぼった願望の階段の先は、
あるときプツンとそこで途切れてしまうのでした。

あっ!落ちる!!

・・・でも、心配は要りません。
そういうときは落ちてしまった方がいいのです。
落ちた当初は痛みでズキズキしても、そのうち自分が本当に求めていた星が、
上空ではなく地面の上で輝いていた・・・なんて発見をするからです。

なるほど。
アドバイスをいただいた当初はわかりませんでしたが、
寄る年波でしょうか、自分なりにいろいろ経験してみて、
ようやく言われた言葉の意味が分かるようになってきたように思います。


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『願望の階段』© tomoko okada


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by team-osubachi2 | 2016-07-25 11:39 | らくがき帖

以前小学校低学年向けのお仕事で
『きき耳ずきん』というお話を電子版紙芝居にしたことがありました。
子供の時以来で接したお話に、いまさらながら
ああ、鳥や虫や木や花の声を聞けたらさぞ面白いだろうなあ〜!と思ったことでした。

去年から自分が住んでいるマンションの
ゴミ捨て場を取り囲む土手の草むしりを始めました。
(もちろん管理側に断りを入れたうえで)
もともと自分は園芸の趣味はないのですが
芝の土手に自生しだした草花を生かすべく、自ら買って出た草むしり。
ほどほど怠けつつも続けていると、面白いコトに、この土手の野の草花たちと
だんだん「お近づき」になっていってるような感覚があります。
単なる思い込みかもですが(笑)、でも、ちょっと嬉しい。

問題は、そうマメに手入れしているワケではないので、
いったん草むしりを始めると、時間オーバーしてしまうことです。
整体の先生からは「岡田さんにはマックスで25分ですね」
と言われているのに、ついやりすぎて足首や腰に負担がきます。

「もっと身体の声を聞くことです」と言われているのですが
うう〜む、気をつけているつもりでも、忘れちゃうこともしばしば。
それも鳥や草木の声を聞くのと同じくらいムツカシイ気がしないではないのですが
一日一日、自分の身体にも、身のまわりの自然にも耳をすましてみようか。

うまくいく気がする日もありますが、まあ、忘れてしまったらそれはそれで
ストレッチしたりアフターケアしつつ、あらためて耳をすましてみています。


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『耳をすます』©Tomoko Okada


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by team-osubachi2 | 2016-07-14 09:07 | らくがき帖