虹と、笑いと、音楽

*5月18日(木)晴れ一時雷雨

朝のお日様はどこへいったやら?
お昼ごろ、急激に曇ってきたと思ったらいきなり激しい雷雨。

窓の外を見てみたら、あ!お隣の戸建ての軒下には洗濯物が・・・?!
ああ〜あ、あれはもうアウトだわ。
なんだかね〜、近年は気温の上がり下がりも、雨もいきなり土砂降りってことが増えたわねえ?

夕方着替えようとして、何気に外を見たら、今度は、あ!虹・・・?!

f0229926_22223191.jpg

うわあ〜!きれ〜い!それもダブルで。まるで虹の架け橋ねえ〜・・・。

思わずベランダに出てパチリ!
だけどスマホなんかじゃ画面に全部入らなかったから、虹の端は別撮りにした。

f0229926_22224387.jpg

あの虹の端・・・レインボーズエンドにはどんなラッキーがあるのかしらん。
それが見られたってだけでなんだかずいぶんと豊かな気持ちになるじゃない?

その夜は、友だちと小三治師匠の独演会へ行った。

f0229926_22230681.jpg

小三治師匠は77才になったんだそうだ。
私の場合は師匠が50代のころから聴いてきた。
70代に入られたころか、ひところ、一言言い間違えたら
自分へのペナルティー感が一瞬顔に出たように思ったこともあったけど、
でも、このごろはひとっつふたつ単語を間違えて言い直しても
もうお話の登場人物が間違えたかのように聴こえる。

ずっと以前「肩の力が抜けたような落語ができるようになりたい。
でも、まだだ。肩に力が入ってしまう。難しいもんですねえ」って、
まくらでそんなことを仰ってたことがあったけど、このごろはどうですか?

もう以前のようには追っかけられなくなったけれど、
師匠の落語で、こちらは肩に入ってる力がほぐれるように笑ってすごしましたとさ。

夜は肌寒く、コットンショールをぐるぐると巻いて帰った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*5月20日(土)晴れ

今日は全国的な夏日。いきなり猛暑なみのところもあったみたい。

午後、すみだトリフォニーホールへサン=サーンスの交響曲第3番オルガン付きなどを聴きにいく。

例によって門外漢なので、心地よい音と旋律に耳を澄ませて聴き入るだけだ。
初めて聴く曲もピアノのデュオもとても気持ちよく聴けた。

f0229926_23003564.jpg

クラシック音楽に限らず、生の音源による良い音楽に身をゆだねていると
凹んでいたり、ささくれてたりする心が滑らかに、平らかに鎮めてくれる気がしてくる。

ここんとこひとつのことに凹んでいたのだけれど、音楽もやっぱり
深く低く沈んだ音や激しい音に揺さぶられたあとに喜びが奏でられるんだなあ、
旋律のどちらが欠けてもひとつの作品が成り立たないんだなあって思ったら、
「うん、大丈夫だ」って思えてきた。

f0229926_22234488.jpg

すみだトリフォニーホールのロビーにその舟越桂さんの作品「水のソナタ」があった。

ちょうど昨晩Eテレで見た『SWITCHインタビュー 達人達』で
長塚圭史さんと舟越桂さんのお話がとても面白かったんだけど、
まさにこの彫刻の雛形が舟越さんのアトリエに在るのをたまたま見ていたその翌日に
実物大の作品を見られたことに感激した♪

f0229926_23394466.jpg

このごろ自分は「花」と「手」に惹かれているせいか、作品の手に目がいく。
どんなソナタを奏でる手だろうか・・・美しい指であった。

虹と、笑いと、音楽に・・・感謝♡

Commented by ベル at 2017-05-22 14:17 x
5/21のブログを拝見してふと思い出した、昔、mixiに載せた私のブログから。
文字史的にまだ「心」という文字をうまく使いこなせていなかった孔子の生きた時代の文字事情によれば、「惑」という字は存在しなかったそうです。
それでは孔子は「四十而不惑」の惑にはどんな字を使ったのかというと、惑から心を取った地域の「域」ではないか、という推測があります。
「不惑」ではなく「不域(区切らず・制限せず)」。
そうすると、あの「四十にして惑わず」はむしろ真逆の解釈もありえます。
四十歳からの十年間は自分で作った垣根を越えて大いに惑った末に、「五十にして天命をしる」。
後に聖典のように扱われることになる論語が、為政者の統治道具として「四十歳でおのれの生きる道を見極めよ」と、儒的に変化した(「官製論語化」)よりも素敵な解釈でしょ。
Commented by team-osubachi2 at 2017-05-22 23:24
ベルさん
ほおお〜!それは面白いお話ですね。
論語を読んだ事もないくせに自分なんかが不惑なんて単語を使うのがそもそもの間違いという気がしますが(^^;;
よく考えたことがありませんでしたけども、不惑と不域、私個人はどちらも良いなあと思いました。
漢字の後世の用い方や解釈はどうあれ、四十でこぼこは不惑と示すほどに結局はあれこれ惑うということなんだろうし、不域と言われても実はあれこれ思い込みとか刷込みとか境界線に縛られてしまっているという事も多くあり、
孔子さんはどちらを見すえて記したのかはわかりませんが、二千年を超えてなお今在る「論語」って、やっぱり凄いものなのだなあ〜と今日になって感心しました。
いいお話をありがとうございました。
by team-osubachi2 | 2017-05-20 23:50 | 日々いろいろ | Comments(2)